東日本大震災の復興支援と、震災の記憶を残していくことを目的にした自転車イベント「ツール・ド・東北」。
2019年のツール・ド・東北に参加して、気仙沼から石巻までの100km「気仙沼ワンウェイフォンド」を走りました。
スタート前の朝早くから、走行中のコース沿道まで声援をくれて、すごく楽しいイベントでした。
ところが、2020年はイベントが開催中止。
行きたかったなと思い返したところ、2019年は100kmを走りきるので精いっぱいだったので、あまり周りを見る余裕もありませんでした。
ということで、2020年12月18日から19日にかけて、1年3か月ぶりの景色を見に行きました。
岩手花巻空港から陸前高田を経由して気仙沼に行き、気仙沼からはBRTで南三陸に向かいます!
なお、この記事はツール・ド・東北の目的に沿い、震災の記憶をテーマにまとめています。
観光は別途楽しんでいるので、ぜひ遊びに行ってね!
景色もごはんも温泉も最高だから!
2019年の記事はこちら>>>
「ツールド東北」参加レポート|気仙沼‐石巻100km 気仙沼ワンウェイフォンド走ってきた!
陸前高田 奇跡の一本松(高田松原津波復興祈念公園)
岩手花巻空港から気仙沼に向かう途中に寄ったのは、岩手県陸前高田市の「道の駅高田松原/東日本大震災津波伝承館」。
高田松原津波復興祈念公園として同じ場所にある施設です。
津波被害を受けた海岸に建つ、追悼・祈念施設です。
道の駅高田松原では三陸の地元の味を楽しむこともできます。
いわてつなみメモリアル
東日本大震災津波伝承館「いわてつなみメモリアル」。
https://iwate-tsunami-memorial.jp/
東日本大震災津波の、事実と教訓を発信する施設。
津波災害を歴史的・科学的視点からひもとき、津波についての説明や、実際に被災した消防車などが展示されています。
実際の映像がただ流れる7分間のシアターがものすごく怖かった。
広場と献花台
建物の奥には広場が広がり、海のそばの献花台へと続きます。
離れた場所に、震災遺構である陸前高田ユースホステルと、「奇跡の一本松」が見えました。
奇跡の一本松
高田松原7万本のうち、唯一生き残った復興のシンボル。
津波に耐えて奇跡的に残った一本松でしたが、海水により深刻なダメージを受け、平成24年5月に枯死が確認されました。
陸前高田市により、モニュメントとして保存整備されています。
となりに併せて保存されている建物は、旧・陸前高田ユースホステル。
献花台からの陸前高田市街の風景。
続けて、気仙沼に向かいます。
祈りはできたけど、市の中心部からは少し離れているため、中継するだけとなってしまいました。
もっと長い時間をかけて滞在したいなあ。
観光とかおいしいごはんとか調べておこう。
高田旅ナビ
気仙沼
1年3か月ぶりの気仙沼!
ツール・ド・東北の前日は雨だったし、当日は朝が早かったしで、改めて散歩しました。
港まで歩き、お昼ごはんは「お魚いちば」内の「レストラン鮮」。
気仙沼ワンウェイフォンドのスタート地点、PIER7(ピアセブン)。
スタートポールがあった広場は工事中でした。
来年はまたここから走りたいな。
気仙沼駅に戻り、BRT(かつての線路を活用した、バス高速輸送システム)に乗車。
南三陸・志津川駅に向かいます。
南三陸さんさん商店街
志津川は南三陸町の中心地。
「サンサンと輝く太陽のように、笑顔とパワーに満ちた南三陸の商店街にしたい」というコンセプトのもと、2012年2月25日に仮設商店街としてオープンした「南三陸さんさん商店街」。
https://www.sansan-minamisanriku.com/
かつての町の中心を、震災後10メートル近くかさ上げした造成地に、2017年3月3日(サンサン)に本設オープンしました。
南三陸杉を使用した平屋6棟に、飲食や生活関連店舗などの約30店舗で構成されています。
南三陸さんさん商店街の北側には、新たに道の駅がオープン予定。
震災伝承施設と観光交流施設の機能を持ち、BRT志津川駅も移転します。
バスなので駅の移動もフレキシブルなのですね。
南三陸はタコが名物。西の明石、東の志津川。
かわいい
南三陸町震災復興祈念公園
南三陸さんさん商店街から「中橋」を渡り、すぐとなりにある南三陸町震災復興祈念公園。
2020年10月12日に公園全体が開園(翌13日から一般公開)したとのこと、開園すぐでの訪問だったようです。
参考:南三陸「復興祈念公園」が全面開園 追悼と伝承、新たな一歩|河北新報
語り継ぎの広場、みらいの森、祈りの丘のエリアがあります。
旧南三陸町庁舎
東日本大震災に伴う津波に襲われた、南三陸町の旧防災対策庁舎が骨組みのまま残っています。
旧防災対策庁舎は3階建てで、地上から高さ約12メートルの屋上に避難場所を指定。
南三陸町は昭和35年に被害を受けたチリ地震の津波浸水深(2.6~2.7メートル)を基準に、かねてから津波に対して防災対策を高く取っていました。
しかし、東日本大震災の津波は15メートルを超え、12メートルの防災庁舎はまるごと波に飲まれました。
助かった人は、アンテナにつかまることができた人と、手すりで必死に耐えられた人たち。
命かけ残した津波写真 南三陸職員、流されるまで撮影|朝日新聞デジタル
一度は解体が表明されたものの、その後政府は各自治体1カ所に限り、保存費用の一部を負担する方針を発表。
2031年までは宮城県が管理して保存することが決まりました。
2031年は震災から20年。
先の話ではありますが、訪問時は2020年12月、もうほぼ10年間が経過しようとしています。
長く残すための防腐剤と、周辺を整備したことが、皮肉にも悲惨さを隠してしまったという部分もあると伺いました。難しいです
祈りの丘
犠牲者の名簿を格納するモニュメントを設置した、祈りの丘。
震災記憶の伝承として、メッセージを刻んだ記念碑を設置し、訪れた人々が復興を祈念する場となっています。
平均津波浸水高(海抜16.5m)を表して、津波の記憶を伝えています。
ホテル観洋で見た写真と比べると、景色が変わってしまったことを実感します。
南三陸ホテル観洋 語り部バス
宿泊した南三陸ホテル観洋が開催している、「震災を風化させないための語り部バス」。
ホテル自身も津波の被害に遭いながら、被災者を長期にわたって受け入れました。
宿泊の明朝に、スタッフが町をバスで案内する「語り部バス」を運行しています。
戸倉地区
かつての戸倉中学校である、戸倉公民館。
高台にあり避難所となっていましたが、到達した津波の高さは20メートルを超え、校庭は水没しました。
高台にあるのに、1階の天井近くまで津波が来たことが分かります。
時計の針は被災した当時の時間で残しています。
地震の発生は14時46分なので、その直後。
体育館の壁のガラスは津波で流されてきたガレキや自動車の衝突によって破壊されました。
海のそばにあった戸倉小学校が津波に襲われたときの解説。
10日に始業式を迎えた戸倉小は震災発生時、校舎屋上まで津波に襲われながらも、学校にいた児童全員が無事でした。
- マニュアルにあった校舎の屋上ではなく、道路を挟んだ高台に避難するという判断
- 高台も危険になったため、さらに高い場所の神社に移動
- 暗く寒い夜を協力して過ごした話
ここで考えます。
この戸倉小学校のように多くの学校が津波被害にあっていながら、ニュース等で知られているのは石巻の旧大川小学校でしょう。
報道される、されないの違いは…
周辺ではかさ上げの工事が行われていました。
防潮堤の高さは8.7m。東日本大震災の津波は20mを越えているので、1000年に一度の被害は止められません。
30年~50年に一度の津波の被害から命を守るための高さであるとのこと。
高野会館
語り部バスが次に向かったのは、南三陸ホテル観洋の総合結婚式場であった「高野会館」。
道路を挟んだ先が南三陸町震災復興祈念公園です。
南三陸町には防災庁舎と高野会館の震災遺構がありますが、保存に対する支援は、各市町村につき一つだけ。(復興庁資料PDF)
高野会館は民間業者(ホテル観洋)が独力で残す決定をしたという、稀有な震災遺構です。
ホテル観洋スタッフブログ|震災伝承施設に…「高野会館」と「命のらせん階段」が登録されました
震災当日は、町の高齢者の方々の芸能発表大会が行われてた中で地震が発生。
「帰したら、津波で危険だ」と避難誘導に当たった従業員らの判断により、327名と犬2匹、全員の命が助かっています。
四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。佐藤さんの手帳には津波の記録が残る。
<午後3時26分、第1波。40分、引き始め>
<4時13分、第2波。28分、引き方開始>
<5時、第3波。10分、引き波開始>
そう書いたところで手が止まった。2キロ弱先の荒島までの海底が姿を現している。
河北新報ONLINE|<アーカイブ大震災>生きたかったら残れ-高野会館
産経フォト|330人を救った高野会館 南三陸町・佐々木真さんが見た「あの日」
当時は周辺に病院や大きな施設がありました。
高野会館からは、ベッドのまま流されていく入院患者も見たようです。
高野会館の屋上近くまで、津波の浸水があったことが分かります。
僕も誤解をしていましたが、波がかぶった最高地点ではありません。
海面の高さであり、壁にぶつかった波ははるかに高くなります。
屋上でさえも、水没していた状況でした。
語り部バスは10時前にホテルに帰着。
そのまま仙台行きの送迎バスに乗り、今年の旅は終わりました。
ツール・ド・東北(のコース)で見た津波被災地の風景「2020年12月」感想
去年のツール・ド・東北では、復興支援と震災の記憶が目的ではありましたが、時間や体力の制限により、しっかりと見ることができませんでした。
今回、現地を歩いたものの…やっぱり何も分かりません。
風景は整理されているものの、果たして復興となっているのかが分からないというか。
特に陸前高田の高田松原津波復興祈念公園。
奇跡の一本松という有名なモニュメントがあるがゆえ、祈念だけで(大事なことだとは思っていますが)陸前高田のごはんも食べず、街も歩かずに移動してしまい、申し訳ない気持ちがあります。ぶっちゃけお金を落としてない
なんとも偶然ですが、ちょうどこの記事を書いている、2021年1月22日の朝日新聞紙面「折々のことば」がぴったりの表現でした。
テレビで次々に伝えられる被災地の被害を見ながら涙をぬぐっていたのに、じかにその場を見るとかえって非現実的に見えるのです。
折々のことば:2060|朝日新聞
去年の走行中は何の建物か知らなかった高野会館について、お話を伺うことができたのは良かったかな。
あとは第3エイドでお世話になった場所で泊まったのはすごく特別感がありました(笑)
ブログ記事は南三陸ホテル観洋の宿泊レポートに続く!
景色のまとめは2021年のツール・ド・東北に続く!